AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「話題の新刊」に関する記事一覧

一四一七年、その一冊がすべてを変えた
一四一七年、その一冊がすべてを変えた 15世紀、ヨーロッパで起こったルネサンスは人間性豊かな芸術と近代科学を生み、以後の世界を根本から変えた。大変革を引き起こしたのはたった一冊の古ぼけた写本。本と、発見した男の数奇な運命をたどる。  問題の本は古代ローマの哲学者、ルクレティウスの著作。あらゆる事物は原子でできているし、魂は滅びる、人は幸福を追求すべしという主張は、当時のキリスト教社会では殺されかねない危険思想。ところが発見者のポッジョはローマ教皇の元秘書。彼の時代、教会の腐敗はなはだしく、人々は抑圧的教義に支配されていた。教会の中も外も解放を求めて爆発寸前、本との激しい化学反応を待つばかりだった社会状況が鮮やかに描かれる。  面白いことにポッジョはラテン語文書の崇拝者ではあったが、社会変革など毛ほども考えてはいなかった。ライバルを誹謗中傷、金儲けに余念がなく愛人との間の子も数知れず。すこぶるつきの俗物がたまたま見つけた偉大な思想が、本人も知らぬ間に次々波及してついに世界をひっくり返した。この世の壮大なる奇妙さに呆然とする。
何歳まで生きますか?
何歳まで生きますか? 1974年生まれの著者が「同時代の大きな一角を代表している」と感じた人物へのインタビューを通して「今を生きる人の死生観はどうなっているのか?」を探る。  ほぼ全てのインタビューは、現時点で何歳まで生きたいと思っているか? という問いから始まる。マンガ家の久保ミツロウが「不老不死になりたいんですよ!」と叫び、思想家の東浩紀が「とりあえず70くらいまで生きれればいいのかな」と答える。彼らの「死」に対するイメージは、まさに十人十色だ。  東日本大震災という大きな「死」を伴う出来事に対しては、たとえばライターの雨宮まみが死者を悼みながらも「『30とか40とかで急に死ぬかもしれないんだな』って思ったら、自分が長生きすることに対して、自分を養ってきちんとした生活を送らなきゃいけないっていう責任を放棄できるような気がして」と、生きることのしんどさを吐露したりする。「死生観」がテーマの本と聞いて、命の大切さを説くものだろうと高をくくっていると、リアルな本音がぽんぽん飛び出してくる。その「油断ならなさ」が実に魅力的だ。
明日の友を数えれば
明日の友を数えれば 先月、81歳で逝去した直木賞作家のエッセイ集。昔なつかしい喫茶店や場末を好む著者が、およそ10年にわたる、老いとつきあう、のどかだが忘れ難い日々を描いた。  荒川沿いの団地に住んでいたころ、通う喫茶店があり、扉の下から桜の花びらがまぎれこんでいた。先のラブホテルの前の桜を風が散らしていたのだ。当時、都心に借りていた仕事場の前にも桜並木があり、着物姿で見あげていた老女の営む喫茶店に出入りした。その彼女は看取る人もなく亡くなる。いつのまにか仕事場のベランダには咲きほこった桜の枝が伸びてきており、その濃厚な匂いを嗅ぎつつ、著者は桜の美しさを体で覚えたように感じる。  居酒屋で打ち解けた男性は、アラブの馬を2、3頭持っていたが、得た金は酒と女に消えたという。金はうなるほどあるという噂だったが、ふとした拍子に6回の結婚と離婚を聞かされた……。  肩肘張らないなかの幸せ。「つつましい喫茶店がある街はいい街だ。街の暖かさ、街の誇りだと私は思ってきた」の一文に、温もりが生きている。
レンアイ滝修行
レンアイ滝修行 女性にとって永遠のテーマともいえる「恋愛」と「結婚」。イラストレーターとして活躍する著者も、40歳を目前に本気で向き合う覚悟を決めた。  「最終回は私の結婚式です!(相手はこれから探します)」と宣言して始まった、文芸誌での連載。初回から滝に打たれにいくところから、本気度が違う(いや、方向性が違う?)。占い、メンタルトレーニング、神社への神頼みなど、自らを省みる修行は続く。かわいいイラストに添えられた、率直な手書きコメントが笑いを誘う。  ところが、半ば迷走気味の修行には続きがある。最終回執筆中に、フリーマーケットで出会った9歳年下の男性と初デート。半年足らずで入籍という予想外の展開に! 本書の後半では、出会いの経緯や、結婚式までの準備などが描かれる。「本当によかったわねぇ」と、近所のおばさんのような気分に浸れること間違いなし。  「はじめて、心底努力したいと思える相手ができたことはこのうえなくありがたいこと」という著者の一言に、幸せな結婚の片鱗が感じられた。
家で死ぬということ
家で死ぬということ 日本にホスピスを広めた立役者のひとりである著者が、在宅ホスピス医に転身して見えたことを綴った。前半はホスピス医時代に書いた文章の再録なので、気持ちや考え方の変遷がよくわかり、読者の理解も深まる。  ホスピスに入れるのは主に末期がんの患者だ。しかし、ホスピスケアが必要な患者はほかにもいる。そこに気づいた著者は、在宅での看取りに舵を切る。ホスピスの否定ではなく、ホスピスの大切さを熟知しているからこその決断であった。  東京都小金井市のホスピスを辞めて、2005年、小平市に「ケアタウン小平」を開く。訪問看護ステーションやボランティアと連携し、24時間対応の訪問医療と自宅での看取りを実現した。  アウトドア好きな男性は、最後はベッドごと庭に出されて旅立った。「4歳の孫娘に毎日会う」という希望通りに過ごせた女性もいる。一日でも長く生きたいと考えた50代の女性は、人工肛門をつくり腎臓カテーテルを始め、大好きな母親に看取られた。著者の対応は常に患者本位だ。死はほかでもない当事者のもの。そんなメッセージが伝わる。
紅の党 習近平体制誕生の内幕
紅の党 習近平体制誕生の内幕 最高指導部入りを有望視された稀代の野心家・薄熙来(ポーシーライ)。「都落ち」で赴任した重慶市ではマフィア撲滅キャンペーンを展開し、市司法局長を処刑にまで追い込んだが、自身も妻のイギリス人実業家殺害容疑により失脚。事件の背後には、党による統治がはらむ構造的ともいえる問題がある。  中国でのビジネス展開には、権限を握る党の中央・地方幹部とのコネが欠かせない。とくに改革開放以降は、党の高官とその家族が、国内外の企業・事業家と癒着し、賄賂など巨額の不正収入を得ていることがたびたび発覚。2008年までの10年余りの間に、不正の発覚を恐れて海外逃亡した政府・国有企業の幹部は16000人以上、流出資産は約10兆円にのぼるという。  「数千年来の伝統」とも言われるコネ人事の実態から習近平ファミリーの利権まで、記者たちは中国共産党の藪の中へと果敢に分け入っていく。薄氏の半生と、失脚後の党指導部の駆け引きを軸とした丹念な取材から、中国共産党の統治の現在形が浮かび上がる力作ノンフィクション。

この人と一緒に考える

噂の女
噂の女 主人公の糸井美幸は、美人ではないが、男好きのする色っぽい女。その姿を見た男たちは、「あの女、やりまくっとるぞ」と、ささやき合う。そして、そんな彼女の周りには、恐喝、保険金殺人など、犯罪の匂いが立ち込め、黒い噂が沸き起こるのだ。  木嶋佳苗など、マスコミを賑わせた実際の「毒婦」たちの事件を彷彿とさせるが、美幸の行動は、どこか痛快さを感じさせる。  舞台は、不況のただなかにある地方都市。そこに住む、しがらみで身動きが取れず、疲弊しきった人々のなかを、自由自在に、女の武器を巧みに操って軽やかに駆け抜ける美幸は、むしろ眩しいような存在でもあるのだ。そして、この小説の真の主役は、彼女に欲望を抱いたり、憧れたりしつつ、日々の生活を送る、地方のありふれた、ごく普通の男と女たち、とも言えるだろう。  エピソードを並べつつ、長編として読ませる著者お得意の手法は、今回も見事に決まっている。登場人物たちが、活き活きと物語を躍動させ、ページを繰る手が止まらなくなる。
産めないから、もらっちゃった!
産めないから、もらっちゃった! 養子縁組の現場では、「授かる」「迎える」といった表現が主流で、「もらう」という言葉は使われない。24年前に特別養子縁組で女の子を“もらった”著者は、あえてこの言葉を選んだ。「神様から特別にもらった」という意味と、「もらわれてきた子」という偏見に負けない強さを身につけてほしいという願いを込めたからだ。  本書は、実親との縁をなくし、養親の実子として縁組する特別養子縁組制度で、生後40日の女の子を受け入れた女性の記録。  小さな命を抱いた瞬間にとめどなく流れた涙。娘が幼い頃から、自分の言葉で真実を伝えるという決意。娘が成長し、何でも話し合える間柄になった喜びなどが率直に記されている。  不妊や養子縁組など、内容は深刻だが、著者の明るく前向きな生き方ゆえか重さはない。また、「養子だから不幸だと思ったことは一度もない」という娘が、昔を振り返る章は、養子側の心情がよく分かり、読み応えあり。  「血よりも濃い水」が確かに存在し、その繋がりの素晴らしさを如実に物語る一冊。
赦す人
赦す人 変態SM作家「団鬼六」の生涯を綴った長編ノンフィクション。  直木三十五の弟子(愛人)だった母を持ち、相場師の父からは「人生は甘くないではなく、甘いものと考えろ」と教育されたボンボンは、長じてオダサクの再来と呼ばれる純文学作家としてデビューするも、酒場経営や女や相場に手を出し、やがて大借金から逃亡生活へと入る。いったんは中学教師に納まった彼だったが、いつしか生徒に「自習!」を告げるや、教壇の机で、日本SM小説の金字塔『花と蛇』を書き殴る「鬼六」となっていた。その後は「エロという潤沢な油田を掘り当てたような状態」に突入し、「エロ事師」として小説・脚本・映画・雑誌・写真集を叩き売り、莫大な金を手にすると、「快楽なくして何が人生か」とばかり、日々大宴会につぐ大宴会を催し、遊び狂うのだった。むろん、愛人たちを縛りに縛った。  無名時代のたこ八郎を付き人にし、ポルノ女優・谷ナオミをプロデュースし、真剣師・小池重明を世に認めさせたSM作家鬼六の本性は、実は「人を赦(ゆる)すサディスト」だったことを明かした評伝である。
ちゃっかり温泉
ちゃっかり温泉 締め切りの日に仕事を放り出す。文章を書く身としては想像するだけで恐ろしいが、羨ましくもある。何をするのかと思いきや、漫画原作者としても有名な著者は携帯電話も持たずに昼間から温泉に出かけてしまう。羨ましさを通り越して、担当編集者が可哀想で堪らない。  向かうのは、浅草の「浅草観音温泉」など東京近郊の昭和の香りがする日帰り温泉施設。わざわざ箱根まで行っても、目指すのは自然に囲まれた有名旅館ではなく、駅近接の大衆温泉「かっぱ天国」。場末感たっぷりの温泉の日常を、設備の仕様から居合わせたおじさんの体つきや会話、風呂上がりのビールまであますところなく描写する。  読了後にふらりと訪れたくなるが、重要なのは「ちゃっかり」の精神。体が温まった頃合いを見計らって、温泉を後にして、軽く飲んで帰る。時間にして2~3時間。決して長居しないので気分転換には最適だ。日頃、だらだら仕事していることを考えれば、「半休取って『ちゃっかり』温泉」はもしかしたら効率的かも。
ぼくらの中の発達障害
ぼくらの中の発達障害 集団に入ることやコミュニケーションが苦手、興味や考えに偏りがあるなど、発達障害の可能性のある生徒が全国の公立小中学校の通常学級で6.5%に上るという。  言葉が広まる割に発達障害の理解は進まず当事者向けの本は少ない。本書は青年期精神医学が専門の著者が、当事者に向けて、生活や人生が楽になるようにと願って書かれている。  特徴は二つ。一つは障害のとらえ方だ。発達障害と定型発達(普通の発達)は連続し、定型発達者にも発達障害の傾向があるという。一方で両者は異なる物の見方や考え方、つまり異なる文化ととらえることも大切と説く。連続性と異質性の二つの視点が必要なのだ。  もう一つは具体的な助言だ。実践的方法として、当事者には、一度に複数のことを頼まれたら紙に書き出して順番をつけることなどを提示し、周囲の人には、話す際に曖昧な質問を避ける、問いつめないなどの態度を勧める。  根底にあるのは、発達障害と定型発達は対等な文化であり、敬意を払うという姿勢だ。多様な文化を持つ人々が共存できる社会に。著者の視線はとことん優しい。
エキゾチック・パリ案内
エキゾチック・パリ案内 パリのユダヤ、アラブ、アフリカ、アジア、インド人街を取りあげ、豊富な写真や地図と共にパリの歴史の奥深さを紹介している。読みすすむほど、パリのざわめきや匂いが伝わり、街中を歩いているかのような気持ちとなる。  ユダヤ人街のロジエ通りには「アディダス・オリジナル」がある。特別なお店がなぜこの通りにあるのか。それは創業者のダスラーがドイツ系ユダヤ人だから。アラブ人街のバルベスのマルシェ(市場)は、パリで最も活気があり、また物価が一番安いところで、著者はその混沌とした様子を「眩暈(めまい)」と表現する。ヨーロッパ最大の中華街がある13区は、様々な経緯を経てやってきた中華系移民のうねりが集結した魅力ある場所だ。“オシャレで洗練”ではなく“ダイナミックで壮大”な文化がある。  おいしそうなイディッシュ料理店、クスクス料理店、アフリカ料理店などが紹介されるのもうれしい。よそ者たちがパリに溶け込み文化の華を咲かせた。その種が実らせたエキゾチックな果実を味わえる本だ。

特集special feature

    快楽上等!
    快楽上等! フェミニズム界随一の論客とカルチャーに精通した二人の対談集。パワフルでエネルギッシュ、自由や快楽に貪欲であろうとする二人。3・11を皮切りに、お互いの家庭環境や少女時代、親子関係、仕事、恋愛、結婚、セックス、加齢と話が広がるにつれ、「実は似た者同士」ということが明らかになり、トークは加速度を増す。  「フェミニズム」というだけで、及び腰になるかもしれないが、そんな理由で本書をパスするのはもったいない。周囲の空気を読む同調圧力に苛まれ、閉塞感に満ちた現状を打破するヒントに満ちているからだ。そこに性差はない。  「予測誤差があるほど、快楽は強くなる」と話す二人。予定調和であれば、手痛い失敗は回避できるかもしれない。しかし、未知への好奇心の少し先にこそ、ステキな予測誤差があり、自由や快楽、生きていて良かったという実感があるという。感覚を遮断せずに受け入れ、向き合うことでしか得られない何かを、リアルにつかみたくなる。そして何と言っても予測誤差の連続である、二人の対話が小気味よい。
    図説 宮中晩餐会
    図説 宮中晩餐会 フランスでの料理修業を経て「天皇の料理番」である宮内省大膳寮主厨長に就任し、日本のフランス料理普及に貢献した秋山徳蔵が蒐集した宮中晩餐会などのメニューを、ふんだんな写真を使って解説とともに紹介した本である。  すっぽんのコンソメやうずら、フォアグラなどが供された明治憲法発布の大宴会、トリュフたっぷりのビーフや羊の鞍下肉などが食卓に上った不平等条約改正を祝う晩餐会などのメニューを見ると、日本が料理の面でも一等国に仲間入りすべく努力を重ね、同時に、フレンチにはない食材を応用して新しい料理を創作する努力をしていたこともよくわかる。  また、ツバメの巣を使ったフランス料理が出た満州国皇帝の溥儀の来訪、秋山が得意とした冷たいイセエビが供された開戦直前の日米交渉への布石の食事など、メニューの存在によって、日本の近現代史がぐっと身近に、リアルに感じられる。  国家による饗宴はすぐれて政治的であると言うが、まさにそのことを痛感する、極めて興味深い一冊である。
    大卒だって無職になる
    大卒だって無職になる ニート、引きこもりと聞くと、中学や高校で不登校、退学したまま自宅にいる人々を想起する。けれども、きちんと大学まで出たのに、働けなくなる人が少なからずいる。若者の社会参加、自立支援事業を10年近く続けてきた著者が、彼ら“高学歴ニート”に特有の苦しみと、支援を受けて立ち直っていく軌跡を描いている。  実際にあった事例をもとに、6編の物語に仕立ててあるのは、世にはびこる精神論に抗してのことだ。働けない若者たちに対しては「甘え」「仕事を選んでいるだけ」と決めてかかる風潮が大勢を占め、若者たちの親もまた「私たちのせい」とうつむく。しかし著者は、一時ドロップアウトした彼らはみな「働きたいのに働けない」こと、そして「誰もがつまずく可能性がある」ことを、やわらかく訴える。引きこもる理由を探って予防策を講じるよりも、つまずいたらいつでもやり直せる仕組みを作る方が、現実的なのだ。  社会に出て働くということの本質に裏側から迫る一冊。就活準備中、あるいは就活に悩む大学生とその親にもぜひ。
    東京散歩
    東京散歩 ひとりのフランス人青年が日本を訪れ、東京で半年暮らした。彼はお金はあまりないけれどヒマはたっぷりある、駆け出しのイラストレーター。毎日、自転車であちこち出かけ、目に留まったものを色鉛筆でじっくりスケッチした。こうして描きためたイラストをまとめたのが本書。ちょっととぼけたコメントを加えた絵の数々が、思いがけない角度から東京の街並みを見せてくれる。  最初の2週間は町屋に滞在、その後は落合へ。住んでいたゲストハウス内部の様子から近所の家々、そして池袋、新宿、上野、渋谷……と、地区ごとにスケッチを集めてあるのだが、冒頭を飾るのはいつも、各地区にある交番の絵。あらためて見ると、確かに交番の建築はバラエティ豊かで面白い。居酒屋の看板や幟も、駅のホームも、立ちならぶ雑居ビルも、こちらが普段見過ごしている細部まで丁寧に写してあって、はっとする。ところどころに挟まれる人物スケッチもいい。ステレオタイプの異国趣味に囚われない素直な目が生み出した、新鮮でユーモラスな東京の姿だ。
    いじめ加害者を厳罰にせよ
    いじめ加害者を厳罰にせよ 毎日のように繰り返されるいじめ報道。学校でいじめが起きるメカニズムから教育現場の隠蔽体質、報道の問題点などを指摘しながら、いじめ撲滅への処方箋を提示する。  過激なタイトルだが、著者の主張は明瞭かつ論理的だ。いじめの唯一の解決策は市民社会のルールを学校現場に導入することだと指摘する。学校は教育の名の下に聖域化されており、法ではなく「空気」が教師や生徒を支配しているため、常識では理解できない出来事が次々と起きるからだ。法の適用と共に学級制度の解体など具体的な提言も豊富で、いじめの原因を心の問題に帰結させがちな既存の対応策とは一線を画す。  従来の枠組みでは、いじめ問題が抜本的な解決策を見いだせないのは、いじめによる自殺が80年代から断続的に続くことから明らかだ。本書の内容は従来の報道や識者の意見に比べると突拍子もない意見に映るかもしれないが、それは我々が学校を無意識のうちに聖域化してしまっている証左であろう。学校とは何かを改めて突きつけられる一冊である。
    愛の山田うどん 廻ってくれ、俺の頭上で!!
    愛の山田うどん 廻ってくれ、俺の頭上で!! 山田うどんは、埼玉県所沢市に本社・本店を置き、同県内を中心に関東一円に展開するうどんチェーン店。著者二人は、10代後半のとき山田と出会った。といっても、そこで提供されるのは安くて量が多いだけの普通のうどん。若い頃は重宝したが、環境の変化に伴い自然と足は遠のく。しかし50歳を過ぎて、昔と変わらぬ山田と偶然再会。山田は青春だったが、その一言では片付けられない“何か”が残る。居ても立ってもいられず、二人は勝手に「山田うどん再評価」に乗り出す。  山田の本社で社長と面会し、工場を見学し、国道50号線(北関東3県をまたぎ9店舗が配備された「山田ロード」)を走り抜ける。そうして、70年代に山田がロードサイドで店舗数を拡大したことで、そこに繁華街にはないカルチャーが生まれ、匿名的でリアルな「郊外」が形成されたといった興味深い見解を示していく。  いやはや、凡庸なローカルチェーンを一冊の本にしてしまうとは……いや、凡庸すぎるがゆえに、意識しなければ気づかない発見に溢れているのか。

    カテゴリから探す