週刊朝日
第1207回 えっへん ぼくは「名犬エレナ号」
今年、雪国・秋田の厳冬2月、日の暮れた後のこと。ぼく、ゴールデンレトリバーのエレナ(写真、雄、10歳)は、お散歩の帰り道、ママと一緒に坂を上っていました。その坂は急な上に凍っていて、滑って危ないので、地元の人はほとんど使いません。 ぼくはその坂道で知らないおじさんが倒れているのを見つけ、いつも人を見つけるとそうするように、頭を撫でてもらおうと、寄って行きました。 ぼくの顔がおじさんの顔に近づくと、おじさんは「ああ」とうめきました。文字どおり真っ暗だったので、ママはどうやらその声を聞いて初めて人が倒れているのに気付いたみたい。ママが「大丈夫ですか」と声を掛けると、「大丈夫です」とおじさん。重ねて「人を呼びますか」と尋ねると、おじさんはまた、「大丈夫です」。でも、動かない。 ママは少しの間おじさんを見て迷っていたようだけど、思い切ったみたいに坂からすぐのおうちに帰り、おじいちゃんとおばあちゃんに出来事を話しました。 おばあちゃんは、防寒服に懐中電灯と携帯電話の完全装備ですぐに出掛けて行きました。あとからおじいちゃんも坂に向かいました。 ぼくは、おじさんどうなったかな、と思いながら、暖かいおうちでご飯を食べていました。おじいちゃんとおばあちゃんはしばらく帰らず、そのうち救急車のサイレンの音がしました。 何日も過ぎてから、おじさんの奥さんが菓子折りを持って訪ねて来て、おじさんは脚を複雑骨折していて、もしぼくが気付かなかったら、誰にも気付かれずに一晩あそこに倒れていて、多分凍死していただろう、ってことがわかりました。 そんなわけでぼくはその日、おじいちゃんから「名犬エレナ号」と命名されました。えっへん。
特集special feature
吾輩も猫である
夏目漱石の没後100年だった2016年。新潮文庫から猫好きの作家8人によるアンソロジーが出た。題して『吾輩も猫である』。 いずれも猫が一人称で語る趣向で、巻頭の赤川次郎「いつか、猫になった日」は〈どうやら、私は「猫」と呼ばれるものであるらしい〉という一言ではじまる。見覚えのある家にもぐりこんだ彼女は、そこで忽然と気がつく。〈私はこの家の主婦だった。もともと猫だったわけじゃない〉 さらに家族の会話からはじめて知る衝撃の事実。〈私が死んだ?それも「自殺」?/全く思い当らない。でも──ともかく死んだことになっているのは確かなようだ。/私は猫に生れ変ったのかしら?そんなことって……〉 恩田陸「惻隠」は〈ワタクシは猫であります。/ええ、確かに。はい、この肉球にかけて〉と書き出される。彼女は石造りの立派な階段がある豪邸のような場所に住んでおり、そこには毎朝8時になると同居人が通ってくる。同居人は何人も入れ替わったが、〈代替わりするにつれて、存在が軽いというか、つまんないというか〉な感じになっていった。しかも最後の同居人がこれまで〈誰も使ったことのないボタン〉を押すに至り……。もしかして彼女はホワイトハウスの猫? 〈妾は、猫で御座います〉と語り出す猫あり(新井素子「妾は、猫で御座います」)。〈あたしは、猫として生まれた〉と語り出す猫あり(村山由佳「猫の神さま」)。バカバカしいといえばバカバカしい企画だけれど、どの短編もどこか悲劇の様相を帯びているのは元ネタのせい? 時代のせい? 雌猫を主人公にした短編が多いこの本で、雄猫が語り手の原田マハ「飛梅」は異色の一編。〈俺は猫だ。名前だって、ちゃんとある〉と語りはじめたこの猫は、やんごとなき公家の生まれで、父はヒカル、母はムラサキ。が、ある事情から猫本専門ネットショップ「吾輩堂」の丁稚となり……。 ニャンとも猫を食った猫だらけの短編集。猫好きな方へのクリスマスプレゼントにどうぞ。
ぼくは原始人になった
腰布一枚に手製のサンダル。ブランケットに石のナイフ、わずかなチアシードのみで狩猟生活を送る冒険家が、大自然の一部になり「生」の喜びに出会う体験を綴る。 学校教育に馴染めなかったマットは、小学2年生のときに教科書で見たアメリカ先住民が使う槍頭の美しさに魅了され原始生活を志す。飢えと凍え、そして死と隣り合わせの中、棒きれで火を熾し、罠にかけた動物の血肉を食らう。極限状態の中で五感は冴えわたり、時に58日間で2700キロの大地を駆け、時に20メートル先の魚を槍で突いた。やがて歯石は剥がれ落ち、口臭は消え、毛髪は豊かに──荒野で手つかずの合理性に出合う。サバイバルのコツは無知を自覚すること。大地に耳を傾けマットが見つけたのは「生」の答えではなく、答えを生涯探し続ける覚悟だろう。
すべての見えない光
舞台はナチスドイツ占領下のフランス。物語はドイツ人少年兵とフランス人少女の視点から交互に語られる。一場面は極めて短く、スイッチバックが激しい。複数の物語が同時に進行し、一瞬の邂逅を迎える。 両国どちらにとっても暗く困難な状況で、間違いを犯さないことのほうが難しい。人々は皆なにかしらの罪の意識を抱え苦しむ。暗いほうへ流れに身を任せれば何倍も楽かもしれない。何も考えずに。しかしそこで必死にのみ込まれまいと手を伸ばし、光のほうへ生きようとした人々が、この小説では描かれている。 そのすべての人々の幸せを願わずにいられない。どうか、どうかと半ば祈りながらページをめくっていくうちに、物語は終わりを迎えてしまった。ピュリツァー賞受賞の本作は、間違いなく今年一番の良書だ。 (後藤明日香)
ロッキング・オン天国
愛憎どちらに傾くにしても、洋楽ファンにとって「ロッキング・オン」は無視できない雑誌だった。何しろ誌面が熱かった。新しいバンドが登場するたびに、大げさなキャッチが飛び交う。前のめりで扇情的な煽り方は、今も大きな影響を残している。 本書はその2代目編集長による回顧録。だが、意外なほど客観的な視点で編集部にいた7年間を振り返っている。それはロック神話が生きていた時代に、「金儲けに走らないと面白くもなんともねえよ」と社員公募に応募した著者の資質によるのだろう。具体的なビジネスモデルや部数への言及も多い。とはいえ、著者が金儲けの道具としてだけロックを見ていたかというと、そうではない。オアシスやニルヴァーナなどの取材エピソードは控えめな筆致ながらも、親しみがこもって熱い。 (山口浩司)
おじさん仏教
子どものころ、大人は立派だと思っていた。自信たっぷりで、怖いものなさそうで。ところが自分が中高年になってみてわかった。ほんとうの中高年は、不安と後悔と嫉妬と怒りでいっぱいなのだ。 小池龍之介『おじさん仏教』は、若い僧侶が悩める中高年男性に助言する本である。第一部で「おじさん」の具体的な悩みに答え、第二部で仏教理論と悩みの関係を解説する。第三部には蛭子能収との対談を収録。 第一部のお悩み相談がリアルだ。「誰からも評価されていない」と嘆くOA機器会社の50歳。起業して成功した元同僚に嫉妬するIT会社の45歳。妻が大切にしてくれない、家庭での地位はペット以下だとぼやく地方公務員51歳。新橋あたりの居酒屋で、隣のテーブルから聞こえてきそう。 こうした悩みに対して著者は、自分が置かれている状況を直視して相対化する方法をユーモラスに説く。煩悩にどっぷり漬かっているからつらいのである。 ストレスの元は煩悩だ。主要な煩悩は「欲」「怒り」「無知」の三つ。さらに欲の一種として「見」と「慢」。無知とは感覚のセンサーが鈍く、目の前の現実に興味をもたなくなること。いま・ここに集中すれば、煩悩を振り払うことだってできそう。坐禅なんて組めそうにないけれども、つらいとき「これは煩悩だ」と思えば楽になる。仏教は意外と役に立つ。 異色の僧侶として知られる著者は78年生まれ。38歳の若造ならぬ若僧にオレの何がわかるか、と反発するおじさんもいるかもしれない。でも、酒を飲んで暴れたり薬に頼るより、まず一読を。























