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大友博

大友博

プロフィール

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

大友博の記事一覧

第74回 『BBCセッションズ』クリーム
第74回 『BBCセッションズ』クリーム クリームの一員としてのエリック・クラプトンのライヴは、1970年代初頭にフェリックス・パパラルディが編んだ第一集と第二集、2005年春のリユニオン公演を記録した2枚組だけでなく、BBC出演時の音源22曲をまとめたアルバムでも聴くことができる。BBCサイドが制作を担当し、03年にポリドールUKからリリースされた『BBCセッションズ』だ。短いものだが、若いクラプトンへのインタビューも4パート収録されている。
第73回 『ライヴ・クリーム ヴォリュームII』クリーム
第73回 『ライヴ・クリーム ヴォリュームII』クリーム クリームのライヴ・アルバム第二集『ライヴ・クリーム ヴォリュームⅡ』がリリースされたのは、1972年初夏のことだが、じつはこの年は、クラプトンのキャリアにとってきわめて重要な意味を持っている。周囲との関係を閉ざして、暗い闇というか、固い殻のなかに閉じこもり、なにもしていなかったからだ。
第71回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #3
第71回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #3 1980年代初頭、完全にアルコールを断つことを決意したクラプトンは、その後、克服に努める過程で自身のレーベルを立ち上げ、あらためて意欲的な姿勢で創作活動に取り組むようになっている。この時期、時代の寵児でもあったフィル・コリンズにプロデュースを依頼し、ライヴなどでも共演したことはすでに書いた。難しい時代を乗り越えるための起用だったのではないかと思うのだが、その一連の仕事への返礼という意味もあったのか、彼が1989年に発表したアルバム『…バット・シリアスリー』にクラプトンはゲスト参加し、素晴らしいプレイを聞かせている。曲は、全米チャートで3位まで上昇するなど、シングルとしても大きなヒットを記録した《アイ・ウィッシュ・イット・ウッド・レイン・ダウン》。
第70回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #2
第70回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #2 ディレイニー&ボニーとの出会い、それにつづくブラインド・フェイス分裂のあと、エリッククラプトンは、より自由なスタンスでセッション・ワークに取り組むようになっている。ただし、やはりこの時期の仕事に関してもセッション・ワークという言葉はなんとなく馴染まない。「親しい音楽仲間の創作活動への協力」と呼んだほうがいいだろう。
第69回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #1
第69回 エリック・クラプトン セッション・ワークス #1 エリック・クラプトンの、半世紀以上に及ぶ音楽活動をアルバム制作・発表の軌跡を追う形で振り返る。しかも、一般的なスタイルのアルバム紹介ではなく、それぞれの時期の状況や人間関係、精神状態、時代背景にも可能なかぎり触れていく形で。そういったコンセプトで進めてきたこの連載、前回取り上げたアンソロジー『フォーエヴァー・マン』でいったん終了ということになるのだが、今回からはしばらく、オリジナル・アルバム以外の注目作品、積み残してしまったアルバムなどを紹介していきたいと思う。番外編ということだ。
第68回 『フォーエヴァー・マン』エリック・クラプトン
第68回 『フォーエヴァー・マン』エリック・クラプトン エリック・クラプトンが生まれたのは、第二次世界大戦終結の年、1945年の3月30日(ニール・ヤング、ヴァン・モリスン、ローウェル・ジョージ、ピート・タウンゼントなど、同年生まれのアーティストはけっこう多い)。つまり、今年2015年の春、彼は70回目の誕生日を迎えている。《古来、稀なり》の古希だ。本格的なツアーからの《引退表明》は、もちろん、そういった年齢の自覚と無関係ではないだろう。
第67回 『ザ・ブリーズ~アン・アプリシエイション・オブ・J.J.ケイル』エリック・クラプトン&フレンズ
第67回 『ザ・ブリーズ~アン・アプリシエイション・オブ・J.J.ケイル』エリック・クラプトン&フレンズ 本連載の第1回目で書いたとおり、2014年2月に行われた通算20回目の来日公演に際してクラプトンは、「これが最後のツアーになるだろう」というメッセージを公式に表明している。ところが、ツアー終盤の大阪でそのことを確認すると、「あくまでもプラバブリィ」と笑っていた。そして、「最近はレコーディングが楽しくて」とも語っていた。
第66回 『クロスローズ・ギター・フェスティヴァル』エリック・クラプトン他
第66回 『クロスローズ・ギター・フェスティヴァル』エリック・クラプトン他 このWEB連載で、すでに何度か触れてきたクロスローズ・ギター・フェスティヴァルを、提唱者/主催者のクラプトンは、2004年夏にスタートさせている。第一回目の会場は、テキサス州ダラスのコットン・ボウル・スタジアムと隣接する公園。07年夏の二回目と10年夏の三回目は、シカゴ郊外のサッカー・スタジアム、トヨタ・パーク。そして13年春の第四回目は、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン。つまり3年に1回のペースで行なわれてきたわけで、これは、21世紀を迎えてから彼がもっとも熱心に取り組んできたプロジェクトといえるだろう。
第65回 『オールド・ソック』エリック・クラプトン
第65回 『オールド・ソック』エリック・クラプトン 2011年の夏、ロンドンでインタビューしたとき、クラプトンは、『クラプトン』につづくスタジオ録音作品の方向性について、「カントリーか、カリビアン」といった意味のことを語っていた。その後、彼は、80年代以来のダック・レコード制作/発売元ワーナーというシステムをいったん解消。新たに立ち上げたブッシュブランチ・レコードを拠点に創作を行い、インディーズ系のサーフドッグに発売を委ねることを決めた(サーフドッグの契約などの関係で、結果的にはユニバーサル・グループからのリリースとなっている)。ちなみに、ブッシュブランチは、個人事務所の名前として以前から使われてきたもの。より自由なスタンスでの創作を意図しての再出発でもあったのだろう。

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